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四方山紀行

THE MOTHER OF POLISH LOWLAND SHEEPDOGS / DR.DANUTA HRYNIEWICZ &  KENNEL KORDEGARDY THE DAWN OF THE BREED - Dr.ダヌータ・ハラニヤヴィッチ&コーデガディー犬舎

「PON復興の母」と敬意をこめて呼ばれるDr.ダヌータ・ハラニヤヴィッチ女史。
彼女が追い求めたPONとは?世界的に有名なコーデガディー犬舎の成り立ち。そして、絶滅から復興へ。その黎明期を、残されたインタビューから掘り起こします


 
さて、ここでは、絶滅に瀕したPONの保護とブリーディングに尽力し、全世界で10000頭を数えるまで回復させた功労者である獣医、DR.DANUTA HRYNIEWICZ 、ダヌータ・ハラニヤヴィッチ女史(1914-2007)にスポットを当てたいと思います。

我らのPONの血統書を紐解くと、日本に入ってきた12頭の外産犬の1頭に、BUMBUS Z KORDEGARDY(バンブス・ス・コーデガディー)というのがいます。PONと言えばこのコーデガディーと言われるほどで、ポーランドではコルデガルデと呼ばれている名高き犬舎です。世界大戦を経て、絶滅に瀕したPONを復興させたダヌータ女史の犬舎ですが、実際の彼女は生涯に亘り、PONよりもワイヤーフォックステリアを愛でたという裏話もあったりして、彼女のブリーダー・獣医としてのライフワークはPONに留まらなかったようです。
しかしながら、彼女がいなかったら確実にPONは絶滅種となっていたでしょうから、「ポーリッシュローランドシープドッグ起死回生の母」として、その名は語り継がれています。
 

彼女は1914年、中国ハルピンで亡命者の孫として生を受け、ポーランドに戻ったのち、第二次世界大戦開始直前の1939年にリビウの獣医学校を卒業。ポメラニア~ヴワディスワヴォヴォ~レバにて獣医の仕事をしてきました。2007年に93歳の生涯を閉じるまで、精力的にPONのブリーディングとショーイングを行い、世界中に名犬を送り出していったのです。
彼女の犬舎を代表するSMOK/スモック、DOMAN/ドマンという犬達が全世界のPONの先祖というわけですが、彼女が規範としてきたものは、彼女が戦前からよく見かけていた毛むくじゃらの犬の姿形でした。時代の変遷によって犬の形もファッションとして変化していくものです。今のPONが果たして彼女の意図していたPON像を維持できているかは疑問ですが、大きさ・形もまちまちながら、卓越した記憶力と朗らかな表現能力は大事に受け継がれ、PONの代表的な特性となっています。国やブリーダーによってそれぞれの特色を出した繁殖が行われており、まだまだ希少とはいえ、ヨーロッパで注目される犬となったのは全て彼女の功績と言えるでしょう。 

獣医としての過酷な生活で傷んだ体はリウマチに侵され、晩年は車椅子の生活でしたが、盛んにショーに自分の繁殖犬を出陳し、コーデガディー犬舎ここにありと、皆の尊敬の念を一身に浴びる存在でした。

ここに1990年8月18日に名ジャッジ、MIROSLAW REDLICK/ミロスロー・レドゥリツキによって行われたインタビューがあります。そこからは、PON復興黎明期の戸惑いや試行錯誤が読み取れ、興味深い内容となっています。かいつまんでご紹介したいと思います。

 
第二次世界大戦前から、彼女はポーランド中を旅するたびに、有能な牧羊犬を何頭も見かけていたそうですが、それがのちにポーリッシュローランドシープドッグと呼ばれることになる犬達でした。しかしながら、彼女自身、自分がその犬の犬舎を所有することになるとは、微塵も思っていなかったでしょう。

1945年、ダヌータは獣医として働き、近郊の農家で戦争を生き抜いた馬たちを診ていました。戦前から知っているその場所には羊飼いとつがいの犬がいて、その2頭にはKULTA/クルタとLASKA/ラスカという名前がついていました。クルタとラスカの2頭は既に年老いていましたが、なんとか彼らから子供を取れないかと試行錯誤したのち、たった1頭の雄犬を授かることができ、SMOK/スモックと名付けることにしたのです。SMOKはDRAGON、KORDEGARDY はGUARDHOUSEを意味します。

このスモックがコーデガディー犬舎の始祖犬となるわけなのですが、当時のダヌータ自身には特にこれと言った計画も無く、産まれたスモックを農場に送り込み、牧羊犬として育てていました。 
ところがその後、1950年発行の冊子、「PIES」に戦前の犬達の写真と短い文章で構成された保護の呼びかけ記事を見つけて、彼女の人生は大きく変化していくのです。
ビドゴスチにブリーダーが居ることを知り、1955年にDIUNA/ディウナとDUKAT Z BABIEJ WSI /ドゥカッツ・ス・バビアウィエシという2頭の子犬をP・KUSIONOWICS/クシナヴィッツより譲り受け、同時にスモックを自分の元に呼び戻しました。


SMOK Z KORDEGARDY
 

DIUNA&DUKAT Z BABIEJ WSI


WIGA
 
SMOK/KUMA/NEPRA/DANUTA/AREK
その後、クラクフのディアコウスカ教授の協力があり、新たな雌犬が譲渡されました。1954年生まれの白く、無尾のWIGA/ウィガという雌犬で、その風貌はZOLTOWSKA/ゾルトワスカ夫人が共に戦禍を潜り抜けたつがいの2頭、戦前の犬にとても似通っている犬でした。コーディガディー犬舎にとっても重要なファクターとして投入されたものの、他の犬と同調できずに喧嘩っ早いウィガにほとほと困ったダヌータは、結局、彼女を手放すことになったのです。

ダヌータは自分の犬舎で生まれた犬たち1頭ずつを詳細に記録している人でした。
このように彼女が没した後にも膨大な資料が残っているのは、彼女が全ての記録を自分の記憶と共に保管して来ていたからです。このインタビューも正しい情報を残そうと、資料を見つつの一問一答でした。
 
彼女のブリーダーとしての初仕事は、1956年にPONの子犬を3胎取ったことでしょう。
年初と年末の2回はスモックとディウナの間で、もう1回はスモックとウィガの間の胎でした。ディウナの胎からはKUMA/クマとNEPRA/ネプラ、更に彼女たちの姉妹に当たり、後に出戻ってきたNIWA/ニワを手元に残しました。ウィガから生まれた子からはWIGAWARAウィガワラを残したのですが、このウィガワラは父親・スモックとの近親交配で、後に名声を得る白黒の雌犬RE-MIS/レーミスを輩出しました。

KUMA

NEPRA

RE-MIS
ポンの名前が一躍有名になったのは60-70年代に流行ったラジオ番組、「マティシャック・ファミリー」での事でした。ギーネック・マティーシャックがレーミスをワルシャワのドッグショーに出陳していた丁度その時に、番組内でAGRESOR/アグレサーというポンが紹介されたのです。

当初から反響はよく、ポーランド中から子犬の注文が入り始めたのですが、生まれてきた子犬達の何頭かは牧羊犬として田舎の農場で飼われたり、繁殖の為にコーデガディー犬舎に戻ったり、そのままその犬舎に残ったりしていたようです。 

 
 
ダヌータが作出するPONは、「SMOKと同じであること」がポイントで、彼女の基本は全てそこにありました。
では色に関しての見解はどうだったのでしょうか。「それは大したことではない。」と一刀両断しています。
彼女自身、白もしくはグレーホワイトの犬を持っていたのですが、レミースは黒白で生まれてきていました。その後、レーミスの親のスモックとウィガワラの同じ組み合わせで1957年に2頭の子犬が産まれたのですが、これが無尾で全くの黒だったそうです。近親交配の中で出うる問題に違いないと思ったのでしょう。彼女は「これは何かとんでもないことが起こったのだ」と確信して、彼らを眠りにつかせました。しかしその後にバラエティー豊かな色の子犬たちが産まれてくるのを見て、その見解が間違いだったことに気づき、あの時のことを後悔したものだったと述べています。そして、チョコ色の子が初めて生まれた時、彼女は全ての色が出うると知り、現在、PONの毛色は全てが公に認められています。
 

AREK GREPS


INKLUZ


SZELMA Z KORDEGARDY
 

ポーリッシュローランドシープドッグとして初めて正式に認証されたのは、1958年に生まれた、真っ白な犬で有名なAREK GREPS/アレク・グレップスを含めたデュカッツとニワの間の子供達でした。
同年スモックとウィガワラの間でも、一番最初のインターナショナルチャンピオンになったAMOK MONIEK/アモック・モニエックの母となる、HARFA/ハルファが生まれています。その年生まれの中ではINKLUZ/インクロースとイワを含むスモックとクマの間の子供達も忘れてはなりません。
また、1959年にスモックとウィガワラはDOMAN/ドマンの父にあたるLIDER/リダーを授けてくれました。その同年、デュカッツとニワが「SPOD ZAGLA/スポッドザグラ犬舎」の始祖犬となるGARDA WTORA Z KORDEGARDY/ガルダ・フターラ・ス・コーデガルディーの父、ASAN/アサンをもうけました。
ガルダの兄GIERMEK/ギエルメックはコールデガルディー犬舎の最初のチョコレートポンでした。

60年代の後半、インクロースとCERTA Z MELTA/セルタ・ス・メルナがチョコレート色のDUDA/デューダをもうけ、そのデューダがGWAREK Z PSIEGO RAJU/グワレック・プシエゴ・ラヨの父であるWITEZ/ウィテッツを生んだのです。
PSI RAJ/ペーエシーリヨット犬舎は1963年にインクロースとERGA Z BABIEJ WSI/エルガ・ス・バビウエシの間から生まれたSZELMA Z KORDEGARDY/シェルマ・ス・コーデガディーを基に早くからブリーディングを始めていましたが、そのシェルマがリヨットで残したのが"Z LAGIEWSKIEGO BORU/ラギエウスキエゴボロ犬舎"と" Z KOLCHIDY/コルチディー犬舎"の始祖犬です。

ダヌータのお気に入りの犬はアラーク・グレップスとイワの間に生まれたLUBEK/ルーベックでした。

そして1967年にDOMANが生まれ、そこからドマンの子孫が世界に羽ばたいていくのです。

1969年までにコーデガディーでは150頭の子犬を取り上げ、その中から31頭のチャンピオンを輩出しました。1970年以降全世界に増えたPONの犬舎はこの犬舎から始まっていると言っても過言ではなく、コーデガディーで行われた初期の繁殖に遺伝的欠陥が出なかったことはPONにとって本当に幸いなことだったのです。


AMOK MONIEK


LIDER


WITEZ
 

GARDA WTORA Z KORDEGARDY


GWAREK Z PSIEGO RAJU


LUBEK Z KORDEGARDY











 
ダヌータは非常に積極的に近親交配をしたことでも知られています。絶滅に瀕した種の存続のためには必要なことではあっても、獣医としての知識を持つ彼女でなくてはできなかったことでしょう。「それは必要であったし、一度たりも悪い結果をもたらすことがなかった。」と彼女が言うように、近親交配が招く負の部分がこの犬種において、見受けられなかったのはラッキーでした。
通常、近親交配を続けると個体が小さくなっていったり、出産頭数が減ってきたりするものです。ところがダヌータのブリーディングでは子犬達が小さく、1頭もしくは2頭くらいしか出ないという状況は最初だけでした。その後、スモックをスモックの娘達と掛け合わせていったら大きくなっていったそうです。

更に、ダヌータが近親交配で使ったスモックとドマンは2頭とも無尾でした。短尾遺伝子の致死性が学術的に論議されていながらも、ダヌータのブリーディングにおいては一切の影響も無かったということになります。
 
現在のポンを見てどう思うかと聞かれて、ダヌータは言いました。
「全く何も感じないわ。彼らは小さすぎるし、頭は小さく、繊細だから。ただ最近体型が随分と改良されて、あまり体の長いポンがいなくなって良かったわね。長いPONは悲惨ですもの。」
歯に衣着せぬ彼女の発言は、愛する犬達にも容赦なくぶつけられます。

2006年、ポズナンで開催されたドッグショーに招待され、それがダヌータが公に姿を現した最後となりました。

2007年9月16日、93歳の生涯を終えるまで、ワイヤーフォックステリア、ダックスフンド、ポーリッシュなどの多くの動物に囲まれ、それぞれの犬種に多大な功績を遺して行ったダヌータ。晩年を過ごしたシレジアの墓地に葬られ、その墓石にはポーリッシュケンネルクラブの名誉会員にふさわしく、2頭の気高いPONが飾られています。



DOMANZ KORDEGARDY & DANUTA






コーデガディ系統図
 
  2013/09/08   minokichi-jp
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